2014年4月10日木曜日

第一章 マーレーの亡霊:その九

第一章 マーレーの亡霊:その九

 マーレーの亡霊は、スクルージの前からだんだんと後退りして
行った。そして、それが一歩退くたびに、窓は自然に少しずつ開
いて、マーレーの亡霊が窓に達した時には、すっかり開いていた。

 マーレーの亡霊は、スクルージにそばへ来るようにと手招きし
た。それに彼は従った。

 マーレーの亡霊は、スクルージとの距離があと二歩のところで、
手をあげて、これよりそばへ近づかないように指示した。それで、
スクルージは立ち止まった。これは、マーレーの亡霊の指示で立
ち止まったというよりも、むしろ驚いて恐れて立ち止まったのだ。
というのは、マーレーの亡霊が手をあげた瞬間に、空中の雑然と
した物音が、混乱した悲嘆と後悔の響きが、何ともいえないほど
悲しげな、自らを責めるような悲しみ叫ぶ声が、スクルージの耳
に聞えて来たからだ。

 マーレーの亡霊は、ちょっと耳を澄まして聞いた後で、自分も
その悲しげな哀歌に、表情をゆがめ、体を震わせた。そして、窓
から物寂しい暗夜の中へ吸い込まれるように出て行った。

 スクルージは、自分の好奇心から無意識に、窓のそばまで近づ
いて行った。そして、彼は外を眺めた。

 空中には、落着きがなく、急いであちらこちらをさまよい、そ
して、進みながらうめき声をだしている魔物達で満たされていた。
そのどれもこれもが、マーレーの亡霊と同じような鎖を身につけ
ていた。その中には、二、三の者が一緒に繋がれていた。(これ
は共謀者かもしれない)

 鎖で縛られていない者は、一人としていなかった。
 生きていた時には、スクルージと親しくしていたユダヤ人も沢
山いた。その中でも、白いチョッキを着て、くるぶしに素晴らし
く大きな鉄製の金庫を引きずっている一人の老いた亡霊は、生前
にスクルージと特に親しくしていた。その亡霊は、ビルの出入り
口のステップにいる、赤ちゃんを抱いた貧しい女性を助けてやる
ことが出来ないと、痛々しげに泣き叫んでいた。
 彼らのすべての不幸は、あきらかに彼らが人助けをしたいと望
んでいても、永久にその力を失ったというところにあった。

 これらの亡霊が霧の中に消え去ったのか、それとも霧が彼らを
包んでしまったのか、スクルージには分らなかった。しかし、彼
らもその声も共に消えてしまった。そして、夜は、スクルージが
このビルまで歩いて帰って来た時と同じようにひっそりとなった。

 スクルージは窓を閉めた。そして、マーレーの亡霊の入って来
たドアを確かめた。それは彼が、自分の手で鍵をかけた時と同じ
ように、ちゃんと二重に鍵がかかっていた。ボルトにも異常はな
かった。
 スクルージは「バカバカしい!」と言いかけたが、口ごもった
ままやめた。そして、自分の受けた感動からか、それとも昼間の
疲れやあの世をちょっと垣間見て、マーレーの亡霊と交わした不
吉な会話や深夜だったからか分からないが、すごい睡魔に襲われ
たので、ガウンも脱がないで、そのままベッドへ入って、すぐに
ぐっすりと寝入ってしまった。