2014年4月10日木曜日

第二章 第一の精霊:その三

第二章 第一の精霊:その三

「これは驚いた!」と、スクルージは自分の周囲を見渡して、両
手を固く握り合せながら言った。
「私はここで生れたんだ。子供の頃にはここで育ったんだ!」

 精霊は穏かにスクルージを見つめていた。
 精霊がスクルージの胸に優しく触ったのは、軽くてほんの瞬間
的なものだったが、彼の感覚にはいまだに残っているように思わ
れた。
 スクルージは、空中に漂っているさまざまな香りに気がついた。
そして、その香りの一つ一つが、長い長い間、忘れられていたさ
まざまな考えや希望や喜びや心配と結びついていた。

「あんたの唇は震えているね」と、精霊は言った。
「それにあんたの頬の上のそれはなんだい?」

 スクルージは、がらにもなく声をつまらせながら「これはニキ
ビです」と、つぶやいた。そして「どこへでも連れて行って下さ
い」と、精霊に頼んだ。

「あんた、この道を覚えているかい?」と、精霊は聞いた。

「覚えていますとも!」と、スクルージは勢い込んで叫んだ。
「目隠をしていても歩けますよ」

「こんなに長い年月それを忘れていたというのは、どうも不思議
だね!」と、精霊は言った。
「さあ行こう」

 精霊とスクルージは、懐かしい道を歩いて行った。
 スクルージには、目に映る門も柱も木もいちいち見覚えがあっ
た。
 こうして歩いて行くうちに、はるか彼方に橋や教会や曲りくねっ
た河などのある小さな田舎町が見えてきた。
 ちょうど二、三頭の毛むくじゃらの小馬が、その背に男の子達
を乗せて、こちらの方へ駆けて来るのが見えた。
 その子供達は、農民が操作する田舎馬車や荷馬車に乗っかって
いる他の子供達に声をかけていた。
 これらの子供達は皆、上機嫌で、たがいにキャッキャッと声を
立てて騒いでいた。それで、とうとうすがすがしい冬の空気まで
それを聞いて笑い出したほど、広い野や畑が一面に嬉しげな音楽
で満たされたくらいだった。

「これはただ昔あったものの残像に過ぎないのだ」と、精霊は言っ
た。
「だから彼らには私達のことは分らないよ」

 陽気な旅人達が近づいて来た。そして、彼らが近づいて来た時、
スクルージは皆のことを覚えていて、その名前を呼んだ。
 どうしてスクルージは彼らに会ったことをそんなにすごく悦ん
だのだろうか?
 彼らが通り過ぎてしまった時、なぜスクルージの冷やかな目が
涙にぬれていたのか?
 スクルージの胸がどうして高鳴っていたのか?
 一人一人がそれぞれの家に帰るため、十字路や分かれ道にさし
かかった時、彼らが口々に「クリスマスおめでとう!」と、言い
交わすのを聞いて、なぜスクルージの胸に嬉しさが込み上げてき
たのだろうか?
 そもそも、スクルージにとってクリスマスは何なのだろう? 
(メリークリスマスおめでとうがちゃんちゃらおかしいわい! 
お前にとっちゃクリスマスの時は一体何だ!)

「学校にはまだ人の気配があるよ」と、精霊は言った。
「友達に置いて行かれた、独りぼっちの子がまだそこに残ってい
るよ」

 スクルージはその子を知っていると言った。そして、彼はすす
り泣きを始めた。

 精霊とスクルージは、懐かしさの残る小路に入り、大通りを離
れた。すると間もなく、屋根の上に小さな風見鶏が見えた。そし
て、鐘の下がっているキューポラを設けた鈍く赤いレンガの館へ
近づいて行った。それは大きな家だった。しかし、破産した家で
もあった。
 広々とした台所もほとんど使われないで、そのホコリは湿って
苔むしていた。
 窓ガラスも割れていた。
 門も立ち腐れになっていた。
 置き去りにされた鶏はクックッと鳴いて、厩舎の中を威張って
でもいるように歩いていた。
 馬車を入れる小屋にも物置小屋にも草が一面にはびこっていた。
 室内も同じように昔の堂々たる面影をとどめてはいなかった。
 陰気なホールに入って、いくつも開け放しになった部屋の出入
り口から覗いて見ると、どの部屋にも古ぼけた家具しか置いてな
く、冷えきって、広々としていた。
 空気は土臭い匂いがして、いたる所が寒々として何もなかった。
それは、あまりに朝早く起きてはみたものの、食べる物が何もな
いのと、どこか似ているところがあった。

 精霊とスクルージは、ホールを横切って、その家の裏にある出
入り口の所まで行った。
 その出入り口のドアはスクルージが押すと簡単に開いて、彼ら
の前に長く何もない陰気な部屋が広がって見えた。
 荒削りの樅(モミ)の板のイスとテーブルとが何列にもならん
でいるのが、いっそうそれをがらんがらんにして見せた。その一
つのイスに座って、一人の寂しそうな少年が暖炉のとろ火の前で
本を読んでいた。
 スクルージも一つのイスにゆっくりと座って、長く忘れていた
ありし日のあわれな自分を見て泣いた。

 家中に潜んでいる反響や天井裏のネズミがチュウチュウと鳴い
てじゃれあう物音や裏のうす暗い庭にあるツララの融けかけた雨
ドイのしたたりや元気のないポプラの落葉した枝の中に聞えるた
め息や何も入っていない倉庫のドアの時々思い出したようにバタ
バタする音や暖炉の中で火のはねる音も、すべてがスクルージの
胸を厚くさせ、心を揺さぶり、涙を潤ませた。また、懐かしさの
あまり、彼は自然に涙を流していた。

「ここがあんたの生まれた家なんだね」と、精霊が聞くと、スク
ルージは言葉にならず、ただうなずくだけだった。
「しかし、もう住めそうにはないね。その少年はこれからどこに
連れて行かれるのか不安でしょうがないみたいだ」と、精霊が言っ
た。

「本当に、そのとおりです」と、スクルージは少し落ち着いて言っ
た。

 精霊は、スクルージの腕をつかんで、別の場所に連れて行った。
そこは、小さな寄宿舎のような建物の門を入った所だった。

「ここは・・・」と、スクルージは戸惑いながら言った。

「忘れたのかい?」と、精霊が聞いた。

「いいえ、忘れるわけがありません。私の連れてこられた児童養
護園です」と、懐かしそうにスクルージは応えた。

 児童養護園は、貧しい家庭の子供を一時的に預かる施設だった
が、スクルージは少年の頃、預けられたままになっていた。

「ここは共立救貧院という公的な施設なのかい?」と、精霊は聞
いた。

 スクルージは精霊が、あの時、商会にやって来た二人の紳士と
の会話を知っていて、いやみで聞いていると感じた。
「いいえ、違います。民間の施設です」と、心苦しそうにスクルー
ジは応えた。

 精霊は表情一つ変えず、スクルージに児童養護園の中へ入るよ
うにうながした。