2014年4月10日木曜日

第一章 マーレーの亡霊:その六

第一章 マーレーの亡霊:その六

 ワイン商の穴ぐらのドアは、ブンとうなって開いた。
 その後、スクルージには、前よりも高くなったその物音が階下
の床で鳴っているように聴こえた。それから階段を上がり、まっ
すぐに、この部屋のドアの前の方へやって来るのを聴いた。

「またバカな真似をしてやがる!」と、スクルージは言った。彼
は家政婦か洗濯をしに来る女性がいたずらをしているぐらいに思
いたかった。しかし、それと同時にマーレーの顔が頭をよぎった。
「誰がそれを本気にするものか」

 スクルージはそう言ったものの、突然、それが重いドアを通り
抜けて部屋の中へ、しかも、彼の目の前まで入り込んで来た時に
は、彼も顔色が変った。
 それが入って来た瞬間に、消えかかっていたロウソクの炎が、
あたかも「私は彼を知っている! マーレーの亡霊だ!」とでも
叫ぶように、ボッと燃え上がって、また暗くなった。

 同じ顔、紛れもない同じ顔だった。
 長い後ろ髪を束ねてまとめ、いつものチョッキ、タイツ、それ
にブーツをはいたマーレーだった。
 ブーツに付いたふさは、後ろ髪や上着のすそや髪の毛と同じよ
うに逆立っていた。
 亡霊の引きずって来た鎖は、腰の周りに巻きつけられていた。
それは長く、ちょうどシッポのように、彼の足元にも垂れ下がっ
ていた。
 スクルージは詳細に亡霊を観察した。
 鉄の鎖には金庫や鍵や南京錠や台帳や証券や鉄で細工をした重
い財布が取り付けてあり、鎖が体から外れないように縛る役目を
していた。
 亡霊の体は透き通っていた。そのため、スクルージは、亡霊を
観察して、チョッキが透すけて上着の背後についている二つのボ
タンを見ることができたぐらいだった。

 スクルージは、生前のマーレーが「お腹がすいたことがない」
と、言っていたのを度々聞いたことがあった。しかし、今までは
けっしてそれを本当にしていなかった。いや、今でもそれを本当
にはしなかった。彼は、亡霊をしげしげと見て、それが自分の前
に立っているのだと受け入れてはいた。また、その死のように冷
い目が、人をゾッとさせるような影響を感じてはいた。そして、
頭からあごへかけて巻きつけていた折りたたんだハンカチの布目
に気がついていた。まあ、こんな物を生前にマーレーが巻きつけ
ているのを彼は見たことがなかったのだが。それらが目の前にあ
るとしても、まだ彼は認めることができなくて、自分と自分の感
覚を疑おうとした。

 亡霊は、頭からあごへかけて巻きつけていたハンカチが、口を
動かせなくしていたので、結び目をほどいた。すると、ほどきす
ぎて、その下の皮膚が腐敗していたのか、あごがだらりと胸のあ
たりまで落ちた。
 その時のスクルージを襲った恐怖はどんなに大きかったことだ
ろう。
 亡霊は、あごをつかむと、あるべき場所にはめて、ハンカチを
調節して結び、口を動かしてみた。

「どうしたね!」と、スクルージは平常心をよそおい、皮肉をこ
めて冷淡に言った。
「何か私に用があるのかね?」

「沢山あるよ」と、言った声は、間違いなくマーレーの声だった。

「貴方は誰ですか?」と、スクルージは聞いた。

「誰だったかと聞いてほしいね」と、亡霊は言い返した。

「じゃ、貴方は誰だったのですか?」と、スクルージは声を高め
て言った。そして、彼は「亡霊にしては、いやにこまかいね」と、
言った。もちろん、スクルージが亡霊について詳しいわけではな
い。本当は「些細なことまで」と言おうとしたのだが、比喩的な
言葉としてこの方がふさわしいと思って言い換えたのだ。

「生存中、私は貴方の仲間、ジェイコブ・マーレーだったよ」と、
マーレーの亡霊は応えた。

「貴方は・・・。貴方はイスに座れるかね?」と、スクルージは
どうかなと思うように相手を見ながら聞いた。

「出来るよ」と、マーレーの亡霊は応えた。

「じゃ、座ろうじゃないか」と、スクルージは言って、恐る恐る
イスに座った。

 スクルージがこんな質問をしたのは、冷静に考えて、透明な亡
霊でもイスに座れるものかどうか、彼には分らなかったからだ。
そして、それが出来ないという場合には、亡霊も面倒な言い訳を
するのか知りたかったのである。ところが、マーレーの亡霊は、
そんなことには馴れきっているというように、暖炉近くにあった
イスを触ることもなく移動させて、スクルージのイスに対面する
位置に止めると、平然とそのイスに座った。

「お前は私を信じていないね」と、マーレーの亡霊は言った。

「信じないさ」と、スクルージは言い返した。

「私の存在については、お前の感覚以上にどんな証拠があると思っ
ているのかね?」と、マーレーの亡霊は聞いた。

「私には分らないよ」と、スクルージは応えた。

「じゃ、何だって自分の感覚を疑うんだい?」と、マーレーの亡
霊は聞いた。

「それは」と、スクルージは言って続けた。
「些細な事が感覚には影響するものだからね。胃の調子が少し狂っ
ても感覚を詐欺師にしてしまうよ。お前さんは消化しきれなかっ
た牛肉の残りかも知れない。カラシの一粒か、チーズの残りか、
生煮えのイモの砕片ぐらいの物かも知れないね。お前さんが何で
あろうと、お前さんには墓場よりもスープの味わいがあると思う
のさ」

 スクルージは、あまり冗談など言う男ではなかった。またこの
時、心の中はけっしてふざける気持になってもいなかった。実を
いえば、彼はただ自分の心を紛らわしたり、恐怖を鎮めたりする
手段として、気のきいたことでも言ってみようとしたのだった。
それというのも、マーレーの亡霊の声が心底、彼を動揺させたか
らだ。