2014年4月9日水曜日

第一章 マーレーの亡霊:その四

第一章 マーレーの亡霊:その四

 いよいよ霧は深く、寒さも加わってきた。
 突き刺すような、身にしみるような、厳しい寒さだった。
 聖ダンスタンがいつもの武器を使う代りに、こんな天気でひと
なでして、悪魔の鼻をちょいと刺したら、その時こそ実際、悪魔
は大声をあげて気力を鼓舞しただろう。
 骨が犬に咬まれるように、飢えた寒さに咬みつかれ、鼻をモグ
モグとかじられた一人の貧しい少年が、スクルージの事務所にた
どりつき、出入り口のドアの鍵穴から覗き込んで、クリスマスキャ
ロルをスクルージに贈ろうとした。

「神は貴方がたを祝福する。愉快そうな紳士方よ、貴方がたを不
安にさせる者は一つとしてない!」と、少年が最初の歌詞を唄い
だしたとたんに、スクルージは非常に猛烈な勢いで定規を取り上
げた。そのため、少年は恐れて、その鍵穴を残したまま、霧の中
へ、そのまた向うの霜の中へと逃げ出した。

 とうとう事務所を閉じる時間がやって来た。
 いやいやながらスクルージは、そのイスから降りて、牢獄の中
で待ち構えていたボブ・クラチェットに、黙ってその事実を認め
た。
 ボブはすぐにロウソクを消して帽子をかぶった。

「明日は丸一日休みが欲しいんだろうね?」と、スクルージは聞
いた。

「ご都合がよろしければ、ご主人様」と、ボブは応えた。

「都合はよろしくないさ」と、スクルージは言った。
「また公平なことでもないさ。で、そのために半クラウンを報酬
から差引こうと言い出したら、君はひどいめに遭ったと思うだろ
うね。きっとそうだろうな!」

 ボブはひきつった顔で笑った。

「しかもだ」と、スクルージは言った。
「君の方じゃ仕事もしないのに、一日分の報酬を払わせられるわ
しをひどいめに遭わせたとは考えないんだ」

「一年にたった一度のことです」と、ボブは言った。

「毎年十二月二十五日に、人のポケットの物をかすめ取るにしちゃ、
まずい言い訳だ」と、スクルージは立派なコートの襟までボタン
をかけながら言った。
「だが、どうしたって丸一日休まずにはおかないのだろう。次の
日の朝はその代りに、よけいに早く出て来るんだぞ」

 ボブはそうすることを約束した。
 スクルージは、まだブツブツ言いながら出て行った。
 事務所は瞬く間に閉じられてしまった。そして、ボブは白い毛
糸のマフラーの長い両端を腰の下でブラブラさせながら、(とい
うのは彼はコートを持っていなかったからだ)外にいた子供達の
列の端に加わり、コーンヒルの大通りの氷った滑りやすい道の上
を何度も往復する遊びを楽しんだ。それからクリスマスイブのう
ちに、自分の家族と目隠し遊びをしようと思って、全速力でカム
デン・タウンの自宅へ駆け出して行った。

 スクルージは、行きつけの陰気な居酒屋で、陰気な食事を済ま
せた。
 そこにあった新聞をすっかり読んでしまって、あとは退屈しの
ぎに銀行の通帳をいじくっていたが、やがて眠るために自宅に帰っ
た。
 スクルージは、七年前に死んだ仲間のマーレーが所有していた
ビルの部屋に住んでいた。それは、中庭の突き当りの陰気な一棟
のビルの中にある。その二階の薄暗い一つのフロアを独占して自
宅としていた。
 このビルは、まるで少年の頃に他のビルたちと一緒に隠れん坊
の遊びをしながら、そこへ走り込んだまま、元の出入り口を忘れ
てしまったものに違いないと想像せずにはいられなかったほど、
ここにある必要のないものだった。
 今はすっかり古びて、かなり物凄いものになっていた。
 なにしろ他の部屋は全部、事務所に貸してあって、スクルージ
の他には誰も住んでいないのだから。
 中庭は真暗で、そこにある石の一つ一つをも知っているはずの
スクルージですら、やむを得ず手探りで入って行ったぐらいだっ
た。
 霧と霜とは、そのビルの真黒な古い出入り口の辺りにまごまご
していたが、ちょうどそれは、天気の神がじっと悲しげに考え込
みながら、座って瞑想しているかと思われるくらいだった。

 ところで、出入り口のドアにあるノッカーは、それは非常に大
きなものだったというほかに、さして特徴はなかった。
 それは事実だ。また、スクルージがそこに住んでいる間、朝夕
にそれを見ていたということも事実だ。そして、スクルージがロ
ンドン市民の誰とも、市の行政団体、市参事会、組合員などをひっ
くるめても。ひっくるめてもというのは少し大胆だが、ロンドン
市中の誰とも同じように、いわゆる想像力というものをあまり持っ
ていなかったということも事実そのとおりだ。
 スクルージが、この日の午後、七年前に死んだ仲間のマーレー
のことを口にしたっきりで、それ以降、少しもマーレーのことに
は思いをはせなかったということも心にとめておいてほしい。そ
うした上で、スクルージが、出入り口のドアの鍵穴に鍵を押し込
んでから、それがいつの間にどうして変ったということもないの
に、そのノッカーがノッカーには見えないで、マーレーの顔に見
えたということは、一体どうしたことだろうか?
 それを説明の出来る人がいたら、誰でもいいから説明してもら
いたい。

 マーレーの顔。
 それは中庭に点在する他の物体のように、判別できない闇の中
にあるのではなく、深海の岩と岩の真暗な隙間の中にいる発光す
るエビのように、気味の悪い光を身の周りに持っていた。
 それは怒ってもいなければ、恐ろしい顔でもない。
 その昔、マーレーが物を見る時のしぐさとそっくりの顔つきを
して、ようするにその深いしわのある額に古びたメガネをおし上
げて、じっとスクルージを見ていた。
 髪の毛は息か、熱した空気でも吹きかけられているように、奇
妙に動いていた。そして、目はパッチリと開いていたが、まるで
動かなかった。
 その目と、どす黒い顔の色とは、その顔をぞっとさせるような
気味の悪いものにした。しかし、その顔の気味悪さは顔とは全然
無関係で、顔の表情の一部分というよりも、むしろ全体の雰囲気
がかもしだしているように思われた。

 スクルージがこの現象を目をこらして見ると、それはまた一つ
のノッカーに戻っていた。

 スクルージはドキッともしなかった。そもそも彼の血は、幼い
時から恐ろしいというような感じは知らないで育ってきた。しか
し、今もその恐怖を意識しなかったなどと言えば、それは嘘にな
る。彼はいったん放した鍵に手をかけ、鍵穴に押し込んで、しっ
かりとドアノブを回した。それから中へ入ってロウソクに火をと
もした。

 スクルージは、ドアを閉める前に、ちょっとためらって手を止
めた。そして、廊下の方から、マーレーの後ろ髪が突き出してい
るのが見えて脅かされるかもしれないと、半分それを待ちかまえ
ているように、先ず、そのドアの背後を用心深く見回した。しか
し、そのドアの裏には、ノッカーを留めてあったネジとナットと
の他には何もなかった。
 拍子抜けしたスクルージは、ブツブツ言いながら、そのドアを
バタンと閉めた。

 その音は雷鳴のようにビルの中に響き渡った。
 階上のどの部屋も、ワイン商の借りている地下の穴ぐらの中の
どの樽も、それぞれ特有の反響を立てて高鳴りをしたように思わ
れた。
 スクルージは、反響などにおびえるような男ではなかった。彼
はしっかり戸締りをして、廊下を横切って、階段を上って行った。
しかも、歩いている間にロウソクの芯を整えながらゆっくりと。